熊本で生まれ、育ち。
なんでも熊本のことを知っているかのような、そんな錯覚におちいってしまいますが、まだまだ知らないことのほうが多いものです。
今回は、熊本の歴史の中でも少しディープな
二本木遊郭について調べてみました。
二本木遊郭の成り立ち
二本木遊郭について調べようとするも、そもそもの資料自体、流通数が非常に少ないものです。そのため熊大へ出向き話を聞いてきました。
まず最初の成り立ちですが、なんと江戸時代まで話はさかのぼります。
現在の熊本市南区川尻に、藩が許可した「柳堀」という遊郭が1753年~1768年まで存在したことが分かっています。その他、熊本市の小島や藤崎宮、宇土の新開町で公には認められていない「私娼」が多く存在しておりました。
その後明治5年、藩から県になりその後、「私娼取締令」が発令。
時代はうつりかわり、廃藩置県で「藩」から「県」へ。
「私娼」を禁止した代わりに、1874年1月国が認めた「公娼制度」が生まれました。
戦前、梅毒罹患率がもっとも高かったといわれる県は、なんとここ熊本。
そのため、公娼制度の存在意義は公衆衛生の観点からも、非常に高かったのではないかと推測されます。
「公娼」は先に話したように、国が認めたオフィシャルな立場ですから、私娼とは異なり鑑札(当時の身分証明書みたいなもの)が与えられたり、定期的に性病を発症していないかのチェックなども行われていました。
そのため、利用する客側としても、安心して遊べるというメリットも存在します。
また単なる個人間だけの話ではなく「このエリアであれば遊郭を営んで構わない」という場所のくくりも生まれました。最初に二本木遊郭が誕生したのは、実は二本木ではなく、熊本市中央区京町1丁目~2丁目界隈だと資料にもしるされています。
現在でいえば、ちょうど裁判所あたりですね。
西南戦争で一面焼け野が原
その後、熊本を襲ったのが西南戦争。
とにかく熊本城を守らなければならなかったので、近くに敵がひそめないように、現在の新市街や肥後銀行本店あたりまで、あえてすべての建物等を焼き払い、あたり一面焼け野が原となりました。そこで場所を京町から二本木へと移動。
そこから皆が知ることとなる「二本木遊郭」の始まりです。
当時の生活ってただただ悲惨だったの?
なんとなく、当時を知らない同じ女性としては、自分自身を商品にする環境は劣悪としか言いようがないのではないか、という感情に襲われてしまいます。ただその時代に生きていたわけではありませんし、その立場に立っていたわけではない。
二本木遊郭のみならず
遊郭を題材として扱っている映画や書籍はどうしても「暗」の部分にフォーカスしがちです。
ただ我々だって違う立場から見たら「かわいそうな人たち」とくくられるのかもしれません。かわいそうかどうかなんて他人が安易に判断していいことではないと思うのです。そこで教授にその旨を質問したところ
「あながち間違いとは言い切れない」
という回答でした。
今の時代にしても、学費のためにと風俗で稼ぐ学生だっているわけです。
もちろん時代背景が変わり、衛生面では昔とは比較にならないほど整っていることでしょう。しかし、人の心、気持ちってものはそう簡単に整うものではありません。
本人の自由意志云々もあるでしょうけども、一度「仕方ない、やるか」と腹を決めた女性ほど強いものはないなと感じました。
今なき二本木遊郭に何を思う
「最後の二本木遊郭」と呼ばれた「日本亭」が解体されたのは2009年の事。
保存を望む声もあったのですが、実際保存をするにしても管理費用はかかる、そして子供たちに「これは一体何だったのか」という遊郭の説明をするのが難しい、などといった理由でなかなか管理先が見つからず、解体となってしまいました。
惜しむべくは、直接この目で見れなかったこと。
それまで熊本で育っていながらも、まったく見聞きすることすらなかったので存在自体知りませんでした。
今年40歳になる私ですらそうなんですから、きっとこれより下の子たちも知らないのではないか、と安易に推測できます。
けして美談にするわけではありません。
しかし、さほど遠くない過去、繁栄時には最大で100人を超える働く女性がいた、という事実は忘れてはいけない、と思っています。
祇園山から二本木見れば
倒るるナントショ
金はなかしま(中島)家も質(茂七)
しののめのストライキ
さりとはつらいね てなこと仰いましたかね